西欧建築と和建築の違い

その違いについては、既に「柱」「屋根」「窓」「塔」「アーチ」等の項で示しているが、それ以外にも幾つかの違いがある

1 冬に最適化か、夏に最適化か
日本の本州は亜熱帯様の気候であり、冬の寒さよりも夏の蒸し暑さに対応する風通しが良い開放形式と日差しを遮る深い庇がある家屋が求められて来た。
この為、基本的建築構造としては開口部を広くとれる柱梁構造となったが,反面、冬期は断熱性・気密性が乏しく、火鉢、炬燵等の簡単な部分的暖房設備と着込みで凌ぐことになっていた。

一方、欧州、特にアルプスの北側では厳冬への対応が強く求められる為、高気密・高断熱な家屋が求められた。石・コンクリートの断熱性は木材より劣るが、厚く・隙間なく施工し、かつ開口部を小さくすることで高気密・高断熱を実現した。暖房も部屋全体を温める暖炉が設備される。
この為、基本的建築構造としては組積造構造となる。メリットがデメリットとなる夏期は換気も不十分になるが、日本と比べると気温が低く、湿度も低い夏が有利に働き、日本の冬期ほどの苦労はなかったと推定される。最近まで冷房設備を持たない家屋も珍しいことではなかった。

2  平屋か階層建か
日本では特別な建物以外は平屋が主流だった。特別とは城郭、狭い地域に密集した商家や遊廓、養蚕などの農家などで、一般的には貧富に係わらず平屋が中心だった。これは複数階層の建築コスト(柱梁方式で階を重ねるのは、特に柱の調達が大変)と人が上に居るのを好まないとういう文化的な側面もあったのではないかと推測する。


一方、西欧では古代から複数階層は珍しいものではなかった。石を積み重ねていくだけという組積造構造は地震の少ない環境では、それに適している。道路に面した一階の間口幅で税金が決まったりしたから奥に伸ばすか上に伸ばすのが節税の手となるという理由もあったのだろう。使用人部屋やサービス部屋(物置、キッチン、ワイン部屋等々)を同じ建物内に置きたいというニーズもあった。また、家畜や馬などは一階で住人は上層階にすむというスタイルも普通だった。

このように様々な理由から西欧では階層建は普通であったが、昔はエレベータはなかったので主住居は2階で、それ以上は屋根裏部屋も含めサポート的なフロアであった。2階の主住居も1階を半地下構造とすることで実質的な昇り降りを少なくしていることも多い(下例)。この主要住居階を「ピアノノビレpiano nobile」という。

下はルートヴィッヒ2世の建てたリンダーホフ(ドイツ)中央の階がピアノノビレ、その下に半地下でサービス用の階があることがわかる。上部の円窓の部分はドーム。

見かけ上2階にあるピアノノビレをpremier étage(First floor、1階)と称し、見かけ上の1階をRez-de-chaussée(ground floor、地上階)と称することが多い。今でも欧州のホテルなどでは地上階をG(グランド)とかL(ロビー)と称し、2階以上にある客室が1階から表示されていたりして、我々日本人は惑わされる。

しかし、この一連の学習の中では日本風に見かけ上の階位で記述することにする。

  宮殿の廊下の有り無し
西欧宮殿の代表とも言えるヴェルサイユ宮殿。折り込んだ両翼形の平面で2階が王の居住するピアノノビレになっている。客は右翼の入口から入場し、直ぐに大階段(青)を登り、幾つかの部屋(桃)の先の最奥に一番位の高い部屋として王の居室(兼謁見室、当初は寝室としても計画された)「アポロンの部屋(黄)」に至る。

建造当初の間取り図。



ところで問題としては階段から「アポロンの部屋」までの行き方である。

通常の私たちの感覚では長い廊下を歩いて、その一番奥に・・・と考えるが、「アポロンの部屋」まで廊下はつながっていない。

実は、そこに至るには幾つかのの部屋を渡り歩き到達することになる。下図で赤矢印は王に謁見する人路であるが、部屋と部屋は隅でつながっており、それらを通した廊下というものは存在しないのがわかる。

すなわち、建築当時では、下図のように「大階段」→「ディアナの部屋」→「マルスの部屋」→「メルクリウスの部屋」→「アポロンの部屋」となる。(あるいは、ディアナの前に「ヴィーナスの部屋」もある)部屋を一つ進めることに王の居室に近づき、訪れる人の地位によって、どこまで王の居室に近づけるかが切られている。

そこに王の権威と家臣の地位が如実に具現化される。これは廊下を配して各部屋に直接行けるようにしては成り立たない権威化(ハイアラーキー)である。


では、廊下はないのか、というと実はバックヤードにある。上図の紫色の部分がそうであり、そこには王の寝室、浴室や閣議室、楽団の控室などがあり廊下でつながっている。また、その廊下や部屋は配膳・清掃等の召使のサービス用にも使われる。

この様に廊下を置かずに部屋どうしをつなぎ、権威を表現する構造は欧州の16世紀以降の多くの宮殿に見ることができる。

翻って日本の場合であるが、江戸城の将軍が謁見する大広間は6ツの連結された間から構成され、どの間に着座できるかは職位や藩の位によってハイアラーキーが規定されている。
その点ではヴェルサイユ宮殿と似ていないこともないが、襖をあければ全体はオープンな広間構成である。また、大広間の周囲には控えの間などもあるが、その間は「松之廊下」のような長い廊下で結ばれており、西欧とは違う権威の表現となっている。
また一方、明治に建築された東宮御所(赤坂離宮、現在は迎賓館)は西欧の造りを取り入れた片山東熊の設計(下写真)。

正面からは2階建てに見えるが両端をみるとその下に半地下の階(サービス用階)が有るのがわかる。




西欧では2階を主要な部屋を設けたピアノノビレとし、1階はサービスフロアとしているのに対して、東宮御所では1階を東宮(皇太子)居室、2階を会議場、宴会場としている配置である。

(皇太子の御所として建設されたが、実際には、豪華すぎる、使い勝手悪いとその後も含めて皇族の住居としてはほとんど使用されなかった。)

平面図(下)を見てみる。この図では半地下となっているサービス階は記載されていない。皇太子の寝室(黄色)は下階(左側図)中央左右にあり、その上階は宴会場になっている。執務室(青色)は南側両角にある。縦横に廊下(赤色)が走り、それに沿って多くの部屋が並び、大切な場所は奥に配置する。ヴェルサイユとは違って寝室に客を入れるということはないので会見等は別の部屋と執り行われる。

このような配置は我々日本人には違和感ないが、西欧の宮殿に詳しい人からみると奇異にみえる。西欧も日本も権力者はその権力誇示の為に様々な工夫をするが、建築についても多くの表現がなされる。廊下の有無や部屋の位置付けもその一つだ。



  宗教建築に求めるものの違い
宗教建築においても、それぞれの宗教のあり方が建築に反映されている。

先ずは、日本の二大宗教である仏教と神道であるが、仏教には、いわゆる「神」は存在しない。 仏教は根源的には悟りを得る教育システムのようなものであり、悟りを得た如来や悟り一歩手前の菩薩などが人々の目標となり、よき指導者ということで尊敬を集め、敬う対象となっている。(余談であるが、よって、寺院に行って「健康」「財力」「出世」等々を祈るのは本来意味のないことであり、寺院に行って祈るは自分の苦悩を解消してくれる悟りを得るということである)

その観点から寺院を見ていくと、本堂というところにはその寺院の拠り所とする本尊(仏像)が安置されており、それに向かって、読経しつつ、悟りを得ようとする配置が求められる。ここでは僧侶も参列者も本尊に向かって収斂する配置となる。一般には仏像は背が高いので建物もそれに合わせて背が高いものになるが、中世のゴシック教会堂の様に数十メートルという空間を設けるものではない。あくまでも仏像の高さに合わせた高さになる。また、寺院内部は読経や座禅などで精神を集中させる場であり、必要以上には明り取りを設けない構造でもある。

下図
は一般的な寺院の構成
内陣と外陣に分かれ、内陣には本尊が配置される。内陣は僧侶のみが立ち入ることができ、一般拝礼者は外陣に座す。本尊の背が高い場合は建物中央に配置されることになり、内陣の後背は空間が空いてしまうことになるので、後ろ向きの像を配置したり、物置になったりする

図は東大寺金堂(大仏殿)  鎌倉時代の様子で現在より少し大きい。w82×d50×h49m   延べ床面積2900平米  中央部を大仏が大きく占める。


一方、神道の神社であるが、神道には神がいるので、それはキリスト教の神と同様に扱ってよいだろうが、幾つかの大きな違いもある(ここでは省略する)。ご神体(像ではなく鏡や剣など)が安置してある本殿とそれを拝む為の拝殿に分けて建築されることが多いが、場合によってはご神体はその背後の山だったもするので拝殿しか無い場合もある。拝殿は広間形式で、寺院と同様に必要以上の明り取りはない。

寺院も神社も聖なる場所以外への装飾は質素であり、キリスト教会内部の豊潤な装飾とは異なる。また、正面には出入口が設置されているが、通常の一般者の拝礼は寺院も神社もその手前で行うことが通常であり、建物内部に入っての拝礼は特別な場合と位置付けるられることが多く、よって寺院や拝殿の内部は広くても数百名程度という規模に留まる。

下図は一般的神社の構成
本殿と拝殿に分割した建物で、間を土間でつないでいる。通常、本殿には神主を含め人は立ち入らない。また拝殿には何も置かれない。


キリスト教教会堂の視点から眺めてみる。教派によって教会堂の位置付けは違うが、カトリックでは教会堂は神との接点を具現化するものとして大切である。まず、第一にはその内部では最後の晩餐を模したと言われる儀式「ミサ」が毎週のごとく執り行われる。ミサにはその都市町村の一般信者も多く参加するので、数千~万に及ぶ収容能力を持つ場合もあり、日本の神社仏閣とは大きく異なる。また、キリスト教の祭主は神に向かって祈るばかりでなく、むしろ信者の方を向いてミサを執り行ったり、説教を行ったりするので、音響や採光、信者からの見え方などで建物に多くの工夫が施される。更に教会堂内部は神の世界との接点として、ゴシック様式教会堂に見られる高天井、ステンドグラスによる神秘な光、バロック様式教会堂にみられるだまし絵手法を用いた現世と天上世界との一体感などが強く表現されている

下図はドイツ・ケルン大聖堂  w86xd144xh58m 延べ床面積7900平米  収容可能人員は立ち席で1万人以上に及ぶという。ブルーの部分が内陣で、その周囲の円形部分には聖遺物などを展示する小部屋(チャペルが並ぶ)。内陣から左側(身廊、側廊、袖廊)に信者が並ぶ。一番右側が出入口となる。




イメージ的には日本の神道・仏教では神仏が人間世界におり来てくれる・・・よって神社仏閣は私たちのこの世の姿のものでよい。キリスト教は神の世界(天国)が理想郷で人間がその世界に近づく努力し、その擬似が教会堂に表現される、という理解でもよいだろう。

5  城塞建築の違い
西欧にも日本にも城塞は数多くあるが、その建築の用途や様式は結構違ったものがある。このテーマでけでも十分深い内容を持つが、ここでは簡単に見てみる。


日本の城、特に戦国~江戸の物は立地は山岳にしろ、平地にしろ、イメージとしては何層もの屋根を重ねた天守閣をコアとしてその周りを城壁や堀で囲むという形態である。天守閣は住居ではなく見晴台、最終防御地という軍事的な意味合いと権威の表現として高く、目立つように建築されている。特に江戸時代になってからは戦闘がなくなり、城は城主権威のシンボル的意味合いが一層強くなった。

一方、西欧の城は当初は日本と同様なキープ(天守閣相当の塔)を中心に添え、それを囲む城壁から構成されていった。当初、キープは見晴らしと防御に優れるように丘の上に建築された。ところが時代を下るにつれ、キープはより積極的な防御設備として城壁に隣接した大型建造物として配置されるようになり、更に大砲の時代になると、キープは大砲の絶好の目標となってしまう為に存在意義を失い、城塞全体も遠方からは見えにくい平城形式となっていった。すなわち、城という建築物は失われて行った。(本稿「西欧建築の塔について」を参照)

ところで、日本の場合、城壁や堀は「城」のみを囲むものであり、その中に住居する者は城主一族のみであった。欧州の場合は一般市民も城壁の中に住居するようになり城壁というよりは市壁という姿に変わっていった。そして城主・領主の住処は「城」ではなく「宮殿」という建造物に変わっていった。

都市を壁で囲むのは中国の都市でも多く行われたことであり、中国の場合は、国まで壁で囲った(万里長城)。どこまで壁で囲うのかは、それはそれで面白い研究テーマとなるだろうが、建築観点から言えば、ここでも西欧建築は石材、日本建築は木材主体ということが目立つ。軍事面で考えれば絶対に石材建築の方が有利と思うが、石造りの大型城は日本では見当たらない。そして戦のたびに城は焼け落ちている。城壁は石による建造なので石材加工の技術が無かったというわけではないのだろうが、垂直な建築物建造のノウハウは無かったのだろう。あるいは建築期間や建築費用の面からのことであろうか?地震が多いということも大きな理由だったかも知れない。

終りに
建築の違いは材料等の技術的側面、自然環境条件と共に文化的基盤の違いが大きく影響している。現代は世界的に建築技術的側面が均一化し、利用形態もいわゆる西欧化が世界的に進んでいるので、その結果、建築物も急速に同じような物になって来ている。特に高層ビルは世界的にナショナリティを感じられない画一的なものになっている。

図版流用元
Grand appartement du roi
Palace of Versailles
住総研 研究論文集№40
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