西欧建築の門
ここでは小住宅などの門を除いた比較的公共的な門について述べる。

1 西欧建築の門

(1)凱旋門
西欧建築で門と言ったら、最初に思い浮かべるのは「凱旋門」だろう。中でもパリ・シャンゼリゼ通り西端のエトワール凱旋門(下写真)は有名だ。その建築経緯は面白いストーリーだがここでは省略する。


ところで凱旋門は「門」とついているが果たして「門」なのであろうか?それは「門」の定義にもよるが、そもそも凱旋門はイタリア語:Arco de Triunfo、フランス語:Arc de Triomphe、英語:Triumphal archとなっており、GateやPortとはなっていないアーチあるいはアーチ形をした物という表現になっている。
日本語の「門」の概念をそのまま当てはめるは間違ったとらえ方だろうが、しかし、西欧にとってはアーチは開口部とか出入口をイメージさせる言葉でもあり、門と言っても、それほど大きく違ってしまうわけでもない。

また、Tri...は「勝利」の意味なので、日本語の「凱旋」すると名称だとそこを行進するイメージを持つが、原語では「勝利のアーチ」という記念碑的名称であり、どういう使い方がされたのか?その辺も考えてみたい。

古代の凱旋門はローマ時代に遡る。現存する凱旋門として古代ローマの広場フォロ・ロマーノにあるティトゥス凱旋門(82年、下写真))、セプティミウス凱旋門(203年)、コンスタンティヌス凱旋門(315年)等である。

凱旋門は何かのエリアを区切ったり、通用口であったりするものではなく、一つの記念碑である。この記念碑である凱旋門はローマ皇帝が変わったりするたびに建造された。建築の姿をしているが記念碑であるので、その内部に衛兵が常駐するといったことはない。

下はフォロ・ロマーノの見取り図 左側の 赤丸印①セプティミウス凱旋門   右側の赤丸印 ②アウグスティウス凱旋門   右から2番目 ③ティトゥス凱旋門  一番右側④コンスタンティヌス凱旋門    右端にコロセウムが一部見えている

フォロ・ロマーノの想像図  中央に凱旋門があるがどの凱旋門かは不明
建築的には「凱旋門」には典型的な要素をみることができる。

・単一アーチあるいは三連アーチの貫通通路がある
・両脇に各々2本のコラム(柱)を備える
・柱の上には太いエンタブラチュア(梁)形状を置く
・エンタブラチュアの中央部分にアティックという皇帝の成果を示す碑文を掲示する
・内部空間はない、あっても居住空間ではない
・基壇の上には建設されておらず、路面と同じ高さで建築されている。
・アーチ部は実際に通行可能である
・表裏がない、両面性を持つ建造物
・屋上は彫像などが置かれたが、要人が登るような施設ではない
・アーチ部の天井は格天井模様となっていることが多い

ティトゥス凱旋門



これらの特長から二つの事を推測してみる。
なぜ、この姿になったのか?
どのように使われたのか?

凱旋門はなぜこのような形で構築されることになったのか?記念碑であれば人物像でも、塔でも、他の形も有り得るはず。調べたがその理由は見つからないので、推測になる。

ティトゥス凱旋門(82年完成)があるフォロ・ロマーノは紀元前6世紀から293年までローマの政治の中心地であった。82年はコロセウムが完成した年でもある。キリスト教は未だローマから迫害されていた頃である。その頃の建築様式はギリシャ神殿様式を引き継いだ古代ローマの様式であり、建物の外側に円柱を巡らした石壁建築であり、開口部は半円アーチになっている。フォロ・ロマーノの復元図をみると正に円柱と半円アーチの建物が並んでいる。

当時、一番権威のあった建物はローマ神殿だ。しかし、皇帝の権威を示す為に神殿としてを建ててしまうとローマ神~皇帝との関係でちょっと不整合が発生してしまう。そこで極力神殿の様な威厳を持ちつつ、神殿ではない形式として、この凱旋門の様式が生まれたのではないだろうか。凱旋門は神殿の要素、すなわち円柱とかエンタブラチュアとかを取り入れ威厳を保つが、エンタブラチュアの上の三角形のペディメントが無いこと、アーチ部分は向こうが透けて見えることで建物(神殿)ではないということは明確に表現できる。この様な理由でこの形が採用されたものと推測する。

一方、この凱旋門は当時はどのように使われたのであろうか?
神殿は基壇という1m前後の高台の上に構築されているが、凱旋門のアーチで抜けている部分の床の高さは地面の高さだったようだ。また凱旋門には表面、裏面という明確な差は無いようで両面が同一形で形成されている。もちろん、浮き彫りの額等で表側と裏側はそれなりには区別があるのだろうが、建築的には同一である。

アーチの床面の横幅はティトゥス凱旋門は約5m強、コンスタンティヌス凱旋門のセンターアーチは約7mであるので、馬や兵士は2列になってアーチを通り抜ける事は可能なようだ。或いは兵士ではなく、皇帝や高官だけが通り抜けたのかも知れない。と、いうような推測をすると凱旋門はその日本語の文字通り、そこを凱旋行進したのかもしれない。

(2)城塞の門
これには軍事的な城と市街地を囲う市壁の要所に設けられた2種類がある。どちらも当初は軍事的目的が強かったが、市壁の門は後には防犯とか税徴収などの目的となっていった。ベルリンのフライデンブルグ門は有名だが、現在は単独で門がある。しかし、その昔は市壁があり、その門の一つとして関税徴収行っていた。

門の建築的な構成については様々だが、軍事的意味合いの強い門では
・壁全体の前に堀を置き、特定の門からのみ城内外の行き来が出来るようにする
・門の防御は大変重要で、落とし橋、石落とし、飛び道具の為の狭間などの防御設備が設置される
・壁や城門に取りついた敵兵を攻撃するために両脇にフランキングタワーと呼ぶ迎撃用の塔を設けことが多い
・多重構造の門とする
等の特長が見られる。また、夜間閉鎖等の運用上の工夫も存在する

現在も残る市壁に囲まれたドイツ・ローテンブルグの南端のシュピタール門    手前は堀になっており、見えている門の向こうには敵を四方から射る広場があり、その奥にもう一つの門が構える。

下はドイツ・トリーアのローマ時代の市壁門ポルタ・ニグラ(黒い門)  これは街中側からの眺めだが外からの見かけも両脇にフランキングタワーが付くだけで大きくは変わらない。軍事的な仕掛けはあまりなく、権威・治安・通商目的のような造りに見える。


(3)キリスト教会堂の門
通常キリスト教会堂には門は設置されていない。修道院など外部者を拒む教会施設にはそれを囲む塀とか門があるが、一般信者が集う教会堂にはそれを囲む壁は存在せず、よって出入口となる門も設置されない。この構造は後で示す日本の神社仏閣とは宗教的背景が異なる為である。

キリスト教会堂は教会堂内部だけが聖なる空間として重要視される。その為、教会堂の本体の出入口(通常西端に設置させる)は俗世界と聖世界を区切る重要な意味を持つので、立派に建造される。しかし、教会堂が存在する教会敷地全体は聖なる空間ではなく、そこに聖俗を区別する為の壁や門は設置する必要がない、よって門がないと理解できる。


(4)宮殿の門
宮殿は敷地を囲い、その何カ所には出入口となる門が設置される。しかし、通常、中世以降の宮殿は市壁の中の施設として建築されるので、その門は軍事的意味合いはほとんどなく、単なる出入り管理の為の門で、門というよりは開閉柵と詰め所が一緒になったような構造が多く、建築的にも見るべき特長はない。
2 日本建築の門

門については、日本の方が西欧よりの意味合いが重いように感じる。それは、西欧の門がほとんど物理的意味しか持たなかったのに比べ、日本の門は言わば精神的意味合いを持つものが多いからである。以下、詳細に見ていく。

(1)凱旋門
調べてみると日本にも「凱旋門」があった。特に明治から昭和初期に多数建築された記録がある。日本の凱旋門は日露戦争、日清戦争の戦勝記念や祝賀行事用に作れた。

現存する鹿児島県の山田の凱旋門(下)のような西欧凱旋門風の外観のレンガやコンクリート造りの他に、木材で軸を組み、それに杉の緑葉を装飾したものも多く造られ「緑門」と呼ばれた。緑門は耐久性に乏しく、祝賀の時期が終わると取り壊された。


(2)大木戸
大木戸とは江戸の各街道との出入口等に設置された木門で、高輪(東海道)、新宿(甲州街道)、板橋(中山道)などに設置され、夜間は閉門するなど、主には防犯の役を果たした。浮世絵を見ると木戸は設置されずに両脇に土塁が設けられていた状況もあるようだ。木戸はあったとしても建築としては特長的なものはない。新宿・甲州街道の大木戸  木戸はなく石積みの壁があり区切っている  右側が江戸側と思われるが両方ともに賑わっている

日本橋の袂にも木戸が設置されていたらしい。全く特長のない板門が浮世絵に描かれている


(3)城門
軍事施設である城は石垣や堀で囲み防御力を高める。城への出入口は必須であるが、それが防御上の弱点にもなるので城門は強固にしなければならない。これは西欧でも日本でも同様の事情だ。城門は一カ所とは限らず、また何重にも構築されることもある。江戸城では大手門、桜田門、和田倉門、乾門、半蔵門、坂下門などが今もその名前が残り、現存する門もある。

一般に日本の城の城門は両脇を切り通し形状にしたコの字形の通路の奥に門を設け、その上部は迎撃用の家屋を載せる形が多い。コの字型の構造は、敵兵が城門に取り付く前に両サイドから迎撃する為の構造である。上に乗る建物にはとくに様式等はないようだ。

(4)山門(三門)
凱旋門が日本にあったということはほとんど知られてないが、寺院には「山門」があるというのはよく知られている。日本の代表的な門は城門と山門と言ってもよいだろう。

山門は寺院の本堂前の参道に設置される門で一つとは限らない。現在、多くの山門は独立した建築物となっているが、古来は寺院の周りの回廊がそこに接続されていたらしい。すなわち、寺院の領域(境内)を壁や回廊で囲み、その出入口として山門があった。山門は人々の往来をコントロールすると共に邪気を侵入させないように左右に金剛像などを据え置き、厄払いをするという宗教的意味合いも持った。

下は千葉県行徳市の徳願寺の山門  一階の四隅には像が設置されている  前後・左右ともに対称形の造り


大型の山門の場合は2階に部屋を設け、そこに仏像なども安置した。大徳寺の山門に千利休の木造を置き、秀吉が切腹を命じる口実になったというエピソードも有名である。山門は日本建築には珍しく最初から二階建てを考慮した造りとなっている。

ところでキリスト会敷地には門が不要で、寺院敷地には門が必要な理由として、宗教的に聖なる領域がどこまでかというのが関係している。前述のように教会は教会堂内だけが聖域であるのに対して、寺院はその本堂などを含む広大な敷地全体が聖域となっており、その聖域に出入りする為に山門が設けられている。次の神社の鳥居とも絡み、この聖域の違いは大きい。

(5)鳥居
神社の鳥居を門と称するには少々違和感もあるが、出入口となっているという点では門の属性を備える。鳥居の形がどこに由来するのは知らないが、やはり山門と同様に神社境内という聖域があり、そこへの出入口として鳥居が設けられている。聖域はもちろん精神的なもので、寺院境内と同様にこのような精神域を定めるのは日本(あるいは東洋)文化のようだ。鳥居も一つではなく、一の鳥居、二の鳥居と奥に行くほどに精神的高まりとなる。鳥居は柱の組み合わせであり、山門のような家屋の構造は持たないのはご存じの通り。
下は鎌倉八幡宮の二の鳥居


(6)守礼門
沖縄にある守礼門は琉球王のいる首里城の正門にあたる大手門に相当するところに建築されて、中国からの冊封使が琉球に来た時に、国王らがそこで出迎え拝礼したと言われている(琉球が薩摩の配下に下るのは17世紀初頭)。門は16世紀中旬ころに建造されたとされている。軍事的でもなく、祝賀、記念碑的な意味合いとも、ちょっと異なるようだ。

守礼門は一見では山門的な二階建て構造に見えるが、一階はまるで両部鳥居のように前後に張り出しを設けた柱だけの構造で、その上に屋根が乗り、上階は部屋はなく一階の屋根の上にもう一層の屋根を乗せた構造である。これは中国の牌楼(ぱいろう)、牌枋(はいほう)という門建築の様式に則しているらしい。牌楼は中国本土にはたくさんあるが、日本では守礼門と現代の横浜中華街の出入口にみることができる。

下は
宮島の海上鳥居  前後に足が付く両部鳥居という形式


3 まとめ
門と言ってもいろいろ形状や意味付けがあることがわかった。

述べたように、一般に門は囲ってある領域の出入口として設置され、その門は領域の外側からの見え方や機能が重視される。領域の内側からの見え方が重視される門があるだろうか、と考えたが思い当たらない。当たり前の事なのだろうが、考えてみるとちょっと不思議な感じだ。

図版流用元
<A History of Architecture on the Comparative Method>

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