西欧建築の屋根
建物には屋根は必要不可欠なものであるが、屋根をどう表現するかについては西欧と日本では大きな違いがある。ここではまず宗教建築、即ちキリスト教教会堂と日本の仏教寺院を主な例にとってみたい。
1 日本の神社仏閣
唐招提寺金堂(本堂)の正面はシンメトリーな配置で、その点では西欧の建物に共通するが、金堂を一番綺麗に見せ、権威付けているのは大きな屋根であることに気が付く。屋根の下には建物本体の壁や開口部があり、接近すれば柱などには見事な細工が施されていたりするが、離れた位置からは何と言っても屋根の存在感である。

奈良の大仏殿(下)は大きな2層の屋根の建物で、一見、二階建てのように見えるが、中は大仏を安置してある一つの大空間で、二階建てではない。下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる付け足し屋根で、雨風日差しを遮る役を担っているが、また同時に建物の存在感を極めて強調している。裳階がなければバランス的にもかなり変な形に見えるだろう。

この位の大きさの建物になると壁の面積も広くなるが、そこには西欧建築にみられるような装飾物はなく、壁の使い方も西欧とは全然違っている事がわかる。

(なぜ日本家屋は屋根に価値を置くようになったかについては私見を後部に示す)

2 西欧のキリスト教教会堂
下はカトリックの総本山とでも言うべきヴァチカンのサン・ピエトロ使徒座聖堂を、多くの信者が集う広場側から眺めたものである(写真は東武ワールドスクエアの展示)。正面には列柱が並ぶ建物(ナルテックス)があり、その奥にはミケランジェロ設計の大ドームが望めるが、これはやや高い位置からのアングルであり、広場の高さからは大ドームは目立たない存在になってしまっている。建物の屋根は、ドームの屋根以外は全く屋根というものを見ることが出来ない。

教会堂の基本的配置として東側に祭壇(アプス)、西側に正面入口を設ける。西側の入口の前には広場をおき、建物の西側壁面が教会堂の外観としては最重要な場所(ファサードという)として豪華、権威的に飾られる。ほとんどの場合この西側入口は建物の「妻」側にあり、三角形の屋根の縁は見ることもできるが、屋根自体を遠方に下がったとしても見ることは難しい

下はパリのノートルダム大聖堂の側面の眺めである(東武ワールドスクエアの展示)。この角度からは身廊にかかる屋根を望むことができるが、その存在感は袖廊の陰で希薄である。ここ限らず、目に付くのはドーム、大きな塔、あるいはピナクル(建物の周囲の柱の上に付く小尖塔)になり、屋根はその影で密かに機能を果しているという風情である。

例外的には屋根に装飾を施し目立つようにしてあるところもあるが(例下写真:ウィーン・シュテファン教会堂)一般的に屋根を目立たせることはない。

しかし、屋根を見せないという方向はキリスト教教会堂以外の宮殿、市庁舎などでも同様の傾向であり、特徴である。

一般的なゴシック教会堂の断面図(下図)

一番上の三角形の部分が身廊の屋根部分となる木造の小屋組部分。その下の半円形の部分が石造のヴォールト(天井)となり、身廊の室内からは屋根材は見えない。両サイドの柱が建物の構造柱であり、それに対して斜め横から支えているアームをフライング・バットレスというゴシック特有の構造がある。フライング・バットレスの下に側廊の屋根があるが、この屋根も天井があるので(下図横方向の黒い表現)側廊室内から直接はみえない。

<パリ・ノートルダム大聖堂火災後の追記>
近代以前の石材による組積造の建物の屋根はドームを架ける場合以外は建物の上に、木材で小屋組を作り屋根を載せる形であった。石材では三角形の安定した構造を作れないからである。また、ゴシック教会堂などでは屋根がそのまま天井になっているのではなく、屋根の下に石材によるヴォールト(天井)が張られていた。

ヴォールトは石材を巧みにバランス良く(ドームの様に)積み上げて作ったものであり、ドームと同様に一旦組み上がれば安定した構造となる。

今回のパリ・ノートルダムの火災では木材で出来た小屋組が燃え(建物の上部にあるため、それ故派手に燃えた)、その下の建物筐体やヴォールトは比較的被害が少ないという報道になっいる。それなれば再建は比較的容易であろう。

2 西欧の教会堂以外の建築の屋根

市庁舎や宮殿等の大型建築でも当然、物理的に屋根は必須であるが、それらの建物の屋根の多くは「平屋根」「陸屋根」と呼ばれる僅かな傾斜しかない屋根や傾斜の浅い屋根が採用されていて、教会堂同様に屋根を目立たせることはない。

ルートビッヒ二世のドイツのヘレン・キム・ゼー城館(ヴェルサイユ宮殿の模倣)だが屋根は全く見えない。

同じくルートビッヒ二世のリンダーホフ城館は近くからは全く屋根を望めないが上方からは建物の壁線よりは引っ込んだ場所に黒いドーム状の屋根が望める。その屋根は特段装飾されることもなく存在している。

ウィーンのシェーンブルン宮殿で、屋根は見ることができるが、それが大きな存在感を持つことはない。


低層の一般民家においては、日本と同様にそれなりの傾斜をもった屋根が乗せられているが、家の道路に面した正面は妻側にっている場合と平側になっている場合があるようだ。比較的には妻側になっていることが多いように思うが、どちらも家の前の通りから屋根は見えないように並んでいる事が多い。

ドイツ・フロイデンベルグという寒村やベルギー・ブルージュ等は妻面が道路に面している(軒は道路と直行)。スイスの首都ベルンの旧市街は平側が道路に面している(軒は道路と並行)。妻側か平側かは都市税などの都合によるものと推定する。

ベルギー・ブルージュ

スイス・ベルン

どちらも個々の家屋にとって屋根は目立たせるものではない。しかし、全体としての振る舞いとして見た場合、街の屋根は同一形態・同一色になっていることが多い。これはその屋根をふく素材(主に石材)がその地方で手に入りやすい、また似たような生活環境・経済環境の家は同じような形態に落ち着いていくというところから起因するのだろう。もちろん、現代においては景観保護の観点から統一規制が入ったりしている。

ドイツ・フロイデンベルグ 遠望では整然と並んだ家屋。統一された屋根の角度、屋根材などで屋根は存在感を持つ

スイス・ソーリオ。狭小な山間部なので同一方向に家を揃えて建てるは困難だが、平石でふいた屋根が統一感を醸しだしている。

 
<補足>日本建築の屋根
(1)藁葺き・茅葺き屋根と瓦葺き屋根
今も各所に残っている藁葺き・茅葺き屋根は家屋の屋根としては古来から一般的なものだった。火災には弱く、また耐久性もそれほどは長くない(藁葺きは10年前後、茅葺きは40年位)という欠点はあったが、材料である藁・茅が容易に手に入ったということが一番の要因だろう。

下は典型的な藁葺き屋根の住居(農家)  このように前面に垣根があったりすると建物はほとんど屋根しか見えない。急角度で厚い屋根はその持ち主の財力を現す。なお、この屋根は前述の唐招提寺や大仏殿の屋根と同じ寄棟形式である。

ところで、このような材質の屋根の場合、雨漏りを防ぐには屋根角度は急な方が良い。しかし急勾配の屋根は施工も難しく、材料も多く必要になってしまう。寺院仏閣のような建築の場合はその余裕もあるが、庶民の建築の場合はそう急な角度な屋根は造れない。また屋根の厚さも厚い方が防水、夏冬の気温変化にも強い形となるが、それは経済力との関係になってしまう。

急勾配で厚い屋根は外からみると建物の大部分が屋根に見えてしまい、大きな屋根は建物の格位、その所有者の権威を現すことになって来る。ここに日本建築の特長を現す屋根のもう一つの重要性が現れて来た要因があると考える。西欧建築の柱やファサードの豪華さを競うのに対して、日本建築は屋根の豪華さを競うという特長がある。

下は白川郷の民家(横浜・三渓園)入母屋形式の大屋根で屋根の内側は養蚕部屋になっている。妻側に開口部(窓)があるが内部は暗い。


(2)四方傾斜の日本屋根
西欧建築の場合は建物の妻側が正面となる場合が目立つが、日本建築の場合、神社には妻入りがみられるが、一般的には平側が正面となる平入りの建物が多い。下は出雲大社の正面写真。妻入りの社で二重の破風が美しい

出雲大社の側面写真  反りを持った屋根が大きく目立つ


また、屋根の形状も単純な両傾斜の切妻屋根(左下)ではなく、妻側にも傾斜屋根の付く四方傾斜の寄棟屋根(下中)、入母屋屋根(下右)、宝形屋根(四角錐型)など屋根が目立つ建築となる。

下は入母屋屋根の例。切妻、寄棟は単純な造形の美しさがあるが、入母屋はダイナミックで豪華な表現となっている。その分、工法は難しく金がかかる。妻側のやや引っ込んだ部分に換気口や開口部を設ければ雨を避けつつ、換気や採光が多少可能となる。


これらの四方傾斜屋根は単なる見てくれの向上ではなく、四季や風雨雪の多い日本の自然環境に対応するところから出てきていると考えられ、その為に屋根の庇も西欧に比べると非常に深いものになっている。
深い庇を作る為には柱梁建築の一番外側の柱から更に外側に屋根を張り出す必要があるが、その為に「組物」「垂木」と呼ばれるような柱から更に外側に屋根の支持点を持っていく工法が採用された。


一般民家ではなかなかそのような複雑で高価な工法は採用できないが、寺院仏閣などでは多く採用された。結果、その様な工作物、出来上がった結果の深い軒を持つ屋根は日本建築の大きな特徴となった。

下の写真はちょっと分かりにくいが、柱から外に支えを伸ばす「組物」が造られて、周囲の軒を多くの垂木が支えている豪華な構造。

見事に並ぶ垂木(屋根を支える)


(3)切妻の家並みも切妻に見えない町並み
日本の街でも切妻家屋が並ぶ所は多い。西欧の場合、その妻側の姿がそのまま通りに表現されることが多いが、日本の場合は遠望からは切妻家屋が並んでいることが分かっても、通りからはそうは見えないことが多い。それは通り側にも屋根が張り出す構造を取っているからであり、ここにも四方傾斜屋根の形態が現れている。

下は福島・大内宿。平側を南面にむけ、道路側には妻側が並ぶ家並みだが寄棟屋根の採用で通りからは妻側とは見えない。同じ「田舎」の家並みでも上述のフロイデンベルグとは全然違った街の見え方になる。


下は伊勢のおかげ横町。こちらは二階建てでもあり妻側が並んでいる様子がよくわかるが、通り側1階部分には屋根が突き出して造られており、西欧の妻切の町並みとは様子が違う。


それは西欧の建築にはファサード(建物の顔)という概念があるのに対して、日本の建築にはそのような概念が希薄ということにも関係するだろう。


(4)重要性を増す屋根
日本家屋では屋根による表現を強める為に多くの工夫がなされている。

・反り
屋根の傾斜を単純な直線で構成するのではなく、反りを入れて優雅に見せる(前述の唐招提寺の例)。反りは元は中国からの伝来で、中国では日本以上に反りが急である。
反りには上側に膨らむ「むくり」という反りもある。

むくり屋根の例(この例では僅かに上湾している)


・裳階(もこし)
背の高い仏像などを安置する仏閣は必然的に高さのある建物になる。その場合、最上部にある屋根だけでは少々庇を張り出しても低層部へ降水があたるのを避けることは難しいことになる。そこで低層部に裳階という屋根を付ける。この屋根は結構立派に造られ、外目には複数階建ての建物にも見え、屋根が複数あることにより建物の権威が高まる効果も大きい。(前述の大仏殿の写真も参照)

鎌倉・円覚寺・舎利殿(東武ワールドスクエア)

二階建ての建物に見えるが二階はない。上の屋根は入母屋式、下の屋根は裳階。


・多層の屋根
日本の五重の塔、三重の塔などの原型はストゥーパと呼ばれる釈迦の遺骨を収納した「仏塔」であった。当初は塔というよりは半円形の丘であり、その後インドから中国へ渡っていくに従い高さを持つ塔の姿となった。中国の塔は下写真のように多層の構成となっているが、各階層に付属する屋根は小さく、小高い丘がそのまま上にスーっと伸びっていったイメージを持つ。

これが日本に伝来すると階層は減るが立派な屋根が付き、塔というよりは建築物という姿になり、裳階とも共通するイメージを醸し出すことになった。

即ち、大きな屋根、多数の屋根が付いている建物が立派という価値観が造られていった。

世田谷・豪徳寺の三重の塔


中国の西安の大雁塔。
屋根は最上位を除いては小さいのが付くだけだが、最上階の屋根も目立たない。

蘇州・虎丘塔
・飾り破風
日本の多くの城には城本体で必須となる屋根の他に装飾的に「飾り破風」とでもいうべき装飾的な破風、即ち切妻屋根を薄く切り取って貼り付けたような形状が多く見受けられる。その破風形状は大きく2種類あり、一つは三角形の形状を持つ「千鳥破風」、もう一つは曲線の形状を持つ「唐破風」であり、それらを組み合わせ城の外観とし、城の権威を高める事に寄与した。

名古屋城。途中階に多くの三角形の「千鳥破風」、蒲鉾型の「唐破風」を持つ。



(5)瓦葺き屋根
日本に瓦が入って来たのは飛鳥時代で、それから江戸中期まで瓦は流行り廃りがあった。主には宗教的政治的権威であった寺院に多く使用されたが戦国時代には城にも使用された。江戸中期には力を付けた商家も瓦を使うようになったが幕府により使用禁止に。しかし、1720年の江戸の大火以降は一転瓦を奨励。一般庶民の家に瓦が用いられるようになるのは江戸末期~明治以降になる。関東大震災では重い瓦で家屋が潰されたためトタン屋根が主流となったりした。これらの歴史は調べてみると面白いだろう。

瓦葺き屋根は藁葺き・茅葺きの様に急勾配屋根とする必要はないが、高価な瓦を使った寺院の権威を見せつける為には瓦屋根は見てくれとして急勾配になったのだと思う。キリスト教教会堂がゴシック時代には遠方からでもよくわかる高い建物や塔やドームを設置していったのと同様だ。
  西欧建築史の部屋トップ