社会・宗教と
西欧建築の関係
建築の本では建築様式の要素は良く説明されているが、なぜそのような様式や要素を採用されるようになったかという社会的、宗教的な説明に乏しい。一方、社会学や宗教の観点からも、それまで時代とは違ってなぜ次から次に新しい建築様式が求められたのかの説明が乏しい。
ここではキリスト教の教会堂を取り上げて、キリスト教の社会・文化的側面と建築様式との因果関係をまとめていきたい。

また、ここでは一般的な建築の知識や用語は多少理解されていることを前提とすると共に、自身も勉強中ですので、誤解や無理解等ありますことをお断りしておきます。
 
1 簡単な予備知識

(1)時代区分とその時代の建築様式
古代
(~6c)
古代ギリシャ建築様式、
古代ローマ建築様式、
初期キリスト教建築
中世
(6~16c)
ビザンツ様式 
ロマネスク様式、
ゴシック様式
近世
(15~18c)
ルネサンス様式、
マニエリスム様式、
バロック様式、
<ロココ様式>
近代(19c) 新古典主義、
ゴシック・リヴァイバル、
歴史主義、
折衷主義 
現代(20c~) 表現主義、
モダン・ムーブメント、
<アールヌーヴォー>、
<アール・デコ>等
注:時代区分は説により1~2世紀の差あり
注:< >は建築様式ではなく、デザイン様式だが建築との結びつきは強い

(2)建築様式区分
建築様式 代表的建築物
古典様式Classic(~6世紀) 神殿、公共施設
ビザンツ様式Byzanz
(5~13世紀)
教会堂
ロマネスク様式Romanesque
(10~12世紀)
教会堂
ゴシック様式Gothic(12~15世紀) 教会堂
ルネサンス様式Renaissance
(15~17世紀初)
教会堂、宮殿、公共施設
バロック様式Baroque
(17初~18世紀)
教会堂、宮殿、公共施設
新古典主義Neoclassical
(16~19世紀)
公共施設
ネオXX様式、
XXリバイバル様式
(18世紀~)
公共施設
注:時代は説により1~2世紀の差あり
注:建築としては土木(水道橋など)や軍事施設(要塞など)も重要だが、ここではいわゆる建物に限って示す。

(3) 建築に強く関係するキリスト教概念
三位一体説=父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊は分割できない一体である
~具体的に建築の姿に表現されることはないが、別物と理解するといろいろと理解を誤る
神の居場所=天空
~塔や尖塔、屋根や天井の形状、教会堂の高さ等に大きな影響を与える
●「光」=神の力 「水」=清浄や純潔の象徴
~教会堂の光の演出や洗礼堂などに影響を与える
●ミサ(カトリックは重視)=最後の晩餐の再現儀式
~教会堂の平面形式に大きな影響を与える
●司教区制度(カトリックの場合)
司教座教会カテドラル:司教区(地方・州・県相当)に一つの司教の座カテドラがある、 
参事会聖堂コレジアル:司教区を更に地域分けしたもの(市相当)
小教区教会堂エグリーズ・パロアシアル:更に小さい地域(町相当)
~建築規模や豪華さ等に影響を与える

(4) キリスト教教会堂の位置づけ

キリスト教派により教会堂の位置づけの違いがある
●カトリックの優先順序:神→教会(組織と聖職者と教会堂)→聖書→信者
自力で贖罪不可能(聖職者の力必要、聖書は聖職者の物)
教会堂は「神との交流の場(ミサ)」として極めて大事なので権威的、神秘的、豪華な建築となり、何よりもミサがしっかりできる構造が求められる。
●プロテスタントの優先順位:神→聖書→信者
教会堂に集まらなくても(聖職者の介添えなくても)個々人が聖書に基づいて信仰すればよい。自力で贖罪可能。牧師は教師であり、教会堂は言わば「聖書学習の場」。
教会堂は(カトリックの様には)重視しないので質素な建築
●正教はカトリックと似ているところもあるが(元は同じ)、カトリックとは違って、人間本性は悪ではない、習性が悪である→自力で贖罪可能としている。カトリックのミサに対応する儀式として聖体礼儀というのがあるが、これはカトリックのような祭壇に向かう強い方向性を必要とする物ではない。
~教会堂は重視するが古来からの集中形、特にギリシャ十字平面を持つものが好まれる。

よって、ここでは、宗教改革以降では主にカトリック教会堂に着目していく。


(5) 教会堂の構成の一般形
●平面構成:
~バシリカ形(長広間) 建築容易、古代ローマの集会場に発端。ラテン十字形への拡張のベースともなる。

集中形(円形、多角形、ギリシャ十字形) 墳墓や記念碑等に由来

ギリシャ十字形(等長) 東方教会(正教)に多い

ラテン十字形(一辺が長い)カトリックのミサ実施に適合(祭壇への単一方向性)
図では祭壇は右側の辺にある。信者は長辺部分に祭壇に向かって整列し、聖職者は祭壇から信者方向に向かって言葉を発しミサを進める。
 

●配置:
~基本はアプス(祭壇)を東に位置させる(オリエンテーションという)

それと反対側の西側に正面入口を置く
ただし、建設地の条件や市街との位置関係などにより変分ある
教会関連施設としては本堂、洗礼堂、鐘楼などがあるが、それらは地域や時代により配置の違いが見られる。
●外観:
~正面入口壁面(ファサード)以外は基本的には見てくれを重要視しない。基本的には内部空間が大事。

2 古代・初期キリスト教 4~5世紀

(1) 時代背景
ローマ帝国はキリスト教を公認し(313)、国教に決定した(380)。以降、公式に布教活動、宗教活動を推進することができるようになったが、まだ儀式形式も統一されておらず、その活動基盤となる教会堂については、とりあえずは人々が集まれる場所の確保が第一となった。

(2)初期教会堂の形式
バシリカ式、集中式、古典建築の転用(例:ローマ・パンテオン神殿やメゾン・カレのキリスト教教会堂化)
<下は初期のバシリカ式キリスト教教会堂の例 
ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会堂>


3 中世・東ローマ(ビザンツ)帝国 5~13世紀

(1)時代背景
ローマはコンスタンティノープルに遷都(330)した後、東西ローマに分裂したが(395)、西ローマ帝国の滅亡(476)にもかかわらず、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は独自の帝国を維持していった。当初は西ローマと同じキリスト教であったが、徐々に独自の解釈を入れ込み、西方のキリスト教とは違う道を歩んだ。これを東方キリスト教と称す。(後には正教会となる)。

東ローマ帝国のキリスト教が求めた教会堂は第一には首都コンスタンティノープルでの大人数が収容できる大型教会堂であり、また、独自のキリスト教解釈による偶像の禁止や神の威光などを表現していくことであった。西方のキリスト教(カトリック)の様にはミサの形式を重視しなかったことも教会堂の形式に反映され、集中型の教会堂が建築された。これらは後世にビザンツ様式として現在に至るまで特長付けられるものである。

(2)ビザンツ様式の教会堂
●古来の聖人の墳墓や記念碑の形に由来する集中型、すなわち円形、多角形またはギリシャ十字型の教会堂(西方キリスト教の様なミサ形式には固持しないのでこの形で問題ない)
異教の作である古代ギリシャ・ローマの神殿形式から逸脱する新しい形式の創造
~円柱が並ぶ神殿形式から離れる、ドームの活用、モザイクの多用、 
巨大な礼拝広間を備える大聖堂
~巨大ドーム建築 例:ハギア・ソフィア大聖堂(コンスタンティノープル)

ドームの明り取りからの光による神々しさの演出
大都市以外では建築費が安いバシリカ式教会堂を多数建築し普及に努める
イスラム文化のモザイク技術を活用し「輝(光)」と「神秘性」の演出
偶像禁止の為、モザイク画による聖人やキリスト教物語の描写

この後、東方教会は西方教会との大分裂(大シスマ、1054)、コンスタンティノープル陥落(1453)となっていくが、東方キリスト教は「正教会」として生き残り、ビザンツ様式の教会堂ともに現代にまで継承されていく。
4 中世・ロマネクス様式教会堂 10~12世紀

(1)時代背景
西ローマ帝国滅亡(476)以降もキリスト教は残り(これを西方キリスト教と称す)、ローマは教皇の街として君臨し続けた。神聖ローマ帝国発足(976)後も神(キリスト)の選んだ皇帝が治める国家として西方キリスト教は東方キリスト教以上に拡大・継続し、権威を高めていった。すなわち、王や諸公はキリスト教を権威の後ろ楯として利用していった。この様な背景のもと、当時の建築技術を最大限生かした、後にロマネスク様式と呼ばれる教会堂を多数建築していった。

(2)ロマネスク様式の教会堂
この時代に求められた教会堂は

西方キリスト教(カトリック)の拡大に伴い典礼(ミサ)の統一化が進み始める
~ミサに適合するラテン十字バシリカ平面の採用(ギリシャ十字形ではなく) 
キリスト教の力強さの表現が求められる(同時に建築に尽力した諸公の強さも)
~各地に数多くの教会堂を建築
カトリックとしての統一感がある教会堂
~木造ではなく石造(レンガ含む)とする。当時アルプスから北は森林が豊富であり木造が一般的であったので石造の大建築は偉業であった。
~重厚で目立つ外観(大きな石建築、西面ファサードの装飾、高い塔)
~重厚な内部空間(厚い壁、太い柱、石材天井、半円アーチ/アーケード)
<写真はドイツ・スパイアーのロマネスク様式の大聖堂 
外観も内部も重厚な感じ>


~複合建築による豪華さ(本堂、洗礼堂、塔)
<下はピサの洗礼堂、本堂、鐘楼(斜塔)の複合建築>

~ロンバルディア帯(軒下などの波型模様)、塔の屋根の形(ヘルムスパイア:4つの菱形の屋根)等による装飾の統一感
<写真はドイツ・フライブルグのHerz-Jese教会堂、ロマネスクとゴシックの混合形式
塔の屋根はこの緑の菱形が4面にあり、階のつなぎ目や軒下には波形のロンバルディア帯が装飾されている>


これらの要素の中には当時の建築技術限界に起因する厚い壁・太い柱・円形アーチなどもあるが、それらも含めてこの時代の特長となっている。また、同じ理由で小さな窓しか作れなかったので内部は暗く「神の光」の表現は十分表現されず、次のブレークスルーを待たなければならなかった。

なお、特に都市部のロマネスク様式教会堂はその後のゴシック様式などで再建されたり、改造されたりして現存しているのは多くはない。オリジナルなロマネスク様式教会堂は小さな町などに建築されたものに多く残っている。

5 中世・ゴシック様式教会堂 12~14世紀

(1)時代背景:
西欧(神聖ローマ帝国)では、12~13世紀は宗教的にはカタリ派などの「異端」との争い、神聖ローマ帝国の東ローマ侵攻、イスラムとの十字軍、魔女狩りなどの紛争が頻発する状況が続いている中、フランスを中心としたアルプス北側では三圃制農業による農業・人口の拡大が続き、大都市の形成が進んだ。そこで宗教的に問題となったのは、多量の土着宗教民衆をキリスト信者に改宗させ取り込む必要が出てきたことである。また、為政者である王、貴族、地方有力者、聖職者の権力にとっても民衆を統治し、威厳を高めることが急務となった。このような社会背景がフランスで大規模で後にゴシック様式と呼ばれる新しい様式の教会堂を生むことになった。

(1-1)神との交流の場であるべき教会堂

●もっと「神の光」に満ちていなければならない
(ロマネスク教会堂内は光というよりは暗い闇)
世俗を感じさせず神の世界を感じさせる場でなければならない

(1-2)土着宗教民衆、異教神物などをキリスト教に改宗させる役を果たす教会堂

~土着の慈母信仰→聖母マリアに吸収→マリアの聖人化

~土着宗教のシンボルをキリスト教の中に吸収→ガーゴイルとして飾る
これはあたかも仏教が非仏教の信仰対象であった「天(毘沙門天など)」や「王(閻魔大王など)」を取り込んでいったやり方と同様。
<写真はドイツ・フライブルグ大聖堂のガーゴイル>


(1-3)権力誇示や地域統治機能としての教会堂
集会場としてその都市の万にのぼる全人口を収容できる規模
その都市や出資者の偉業を他地区に誇る姿であること
~遠方からも分かる高い教会堂や塔、大規模造り、凝ったファサードや内装

~ステンドグラスなどに出資者の顔姿を入れる

(2)ゴシック様式の教会堂

ロマネスクでの基本的構造は踏襲しつつ 
神の華麗な光を堂内に満たす
~大きなステンドグラスの多用
~大きなクリアストーリー窓,バラ窓
<写真はフランス・ストラスブール・ノートルダム大聖堂
身廊の左右に大きく高いクリアストーリーの窓が並び
ステンドグラスで図象が作られている>

~それを可能としたフライング・パットレス、ポインテッド・アーチなどの技術
神の居る天上界とのつながり
~垂直方向指向、高天井、ヴォールト
~ピア構造、線状要素などによる壁の重圧感の低減
~高天井や石造堂内による音響効果
<写真はフランス・アミアン・ノートルダム大聖堂
身廊の天井高は42.3m>

異教徒をキリスト教に改宗させるするツール
~石の聖書(アダムとイブの原罪、最後の審判等)、ガーゴイル、ステンドグラス絵画
~聖母マリアの活用(マリア信仰、教会ネーミング、マリア像)
    例:ノートルダム大聖堂、サンタ・マリア大聖堂

異教徒の古典の建築様式ではなくキリスト教独自の建築様式を更に追求
~ポインテッドアーチ、高い塔、トレーサリー、ステンドグラス
~他にはない聖遺物の展示に則した周歩廊の配備
<写真はルクセンプルグ・ノートルダム大聖堂。
ポンテッドアーチの窓の情報に美しくカットされたトレーサリー>


●教会や聖職者の権威を高める
~遠方からも分かる大きい教会堂や高い塔、凝ったファサードや内装
~他には無い聖遺物の収集や展示
<写真はフランス・ストラスブール・ノートルダム大聖堂。片塔は未完。
高さ142mで当時世界一、現在でも世界6位。
このファサードは数千の彫刻で飾られゴシックの名作と言われている>



この様にして13世紀初頭には現在にも残るゴシック様式の大教会堂がフランスを中心に建造された。

参考データ:
ゴシック聖堂の身廊の高さ
サン・ドニ 1144 20m(最初のゴシック様式聖堂)
ラン 1160起工 24m
パリ 1163起工 35m
シャルトル 1194起工 36.6m
ランス 1211起工 37.95m
アミアン 1220起工 42.3m
ボーヴェ 1227起工 51m(工事途中で崩落、未完成)
参考:サンピエトロ使徒座聖堂 46m(完成聖堂で最高高)
   
6 近世・ルネサンス様式教会堂 15~16世紀

(1) 時代背景

14世紀以降のゴシックの後期は英仏戦争(百年戦争)、ペスト大流行、キリスト教の宗教分裂(シスマ:1378-1417年ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂)社会にとってもキリスト教にとっても混乱の時代が続いていた。
コンツタンス公会議で宗教分裂シスマは終息を得たえが、それ以前からカトリックに対する批判は出てきており、遂にサン・ピエトロ聖堂再建の資金集めの免罪符販売を契機にルターの宗教改革(1517)が起き、続いてカルヴァンの宗教改革、更には英国カトリックの分裂(1534)と激動がカトリックを襲った。
これに対してカトリックは反宗教改革活動として異端弾圧を行うと共に、自らは強力な布教活動(アジア等へも、ザビエル等)を実施するイエズス会を創設し基盤の強固を図った。

一方、その様な中にイタリアも混乱の中にあったが、東方との経済・文化的交流や深化は進み、社会の見方や価値観が変化していった。

当時はその時代よりも古代の方が文明が高かったとの認識が普通だったが発掘の進展などで古代ギリシャ・ローマ文明を見直し、更に高く評価
中世の「絶対神のキリストと罪人としての人間との関係」から、「人間も神の完全な創造物として宇宙と調和した自由を持つ」という人間性の発現。
●建築においては(ゴシックのごちゃごちゃした姿ではなく)古代神殿のような端正な姿が理想とする考えが起こる。

すなわち建築にとってのルネサンス(復興)とは古代ギリシャ・ローマ(特にギリシャ)に回帰することを意味し,その観点で建築が見直され建造された。後世、これをルネサンス建築様式という。


この反ゴシック的な考えは、力を持ったメディチ家などの商家のニーズにも受け入れられ(ゴシック様式は宗教色強すぎ、より汎用な様式が求められる)イタリアから北方のドイツ・フランス・イギリス等へ各地の特長を加え波及していった。

(2) ルネサンス建築様式
古代ギリシャ・ローマの建築様式への回帰
~古典建築で用いられたオーダの再認識と徹底
~半円アーチの復活(ゴシックの尖頭アーチではなく)
~均等性、水平性の重視(等間隔の柱、同じ立体感の柱)
~建物内部構造と外部表現の一致(例:二階建ては二階建ての外部表現を持つ)
<下は典型的なルネサンス様式
イタリア・フローレンスのメディチ家リッカルディ宮殿
整然と並ぶ窓、ハッキリ分かれた階層構成,半円アーチの多用
最上部の庇様の部分は神殿のエンタブラチャア(梁)の表現>


(3) 教会堂への影響
カトリックの教会堂建築に対してもルネサンス建築様式の影響は無視できず、中世のゴシック様式の教会堂をそのまま建て続けることはできなかった。
●古典の集中式建築(円形、多角形、ギリシャ十字形)への回帰
教会堂へのルネサンス様式(古典のオーダ)の適用
~通常、下図の様な1階建てとも2階建て(上に伸びた部分には床はない空間)とも整理がつかない山形の断面を持つ教会堂にルネサンスのルール(オーダの遵守、階構成の明確化)を如何に適用するかという問題が起こった。これは、単に高さを求めるゴシックでは起こらなかった齟齬である。

解決策①二階建てとして処理する:
山形の教会堂ファサードの身廊と側廊の段差を二階立ての建物として見せる処理。1階2階の不連続性を渦巻き状模様(ヴォリュート)で流麗化。この方法は苦肉の策であるが、この形はイルジェズ型教会堂としてイエズス会の教会堂として広く普及
<下はローマのイルジェズ教会堂
外観は2階建てとして処理しているのが分かる>

解決策②1階建てとして整理する:
大オーダ(古典的柱より長い柱)を用いることで一階建てに見せる。むろんこの大オーダを使うことはルネサンス様式には反するものであるが、このパラーディオ発案の新しい考えは次のマニエリスム様式~バロック様式に発展するものとなった。
<下はヴェネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会堂
ぱっと見には背の高い一階建てに見える>


しかし、また一方では古典の集中式の建物がカトリックの儀式に適合しないことも顕著になっていった。サンピエトロ聖堂の再建でミケランジェロらはルネサンスの範に則りギリシャ十字形平面で設計・建造したが、ミサの挙行が上手く行かず、ラテン十字形の建築へ大改造され、最終的にはルサンス様式にバロック様式を接合した複合様式の教会堂として完成した(後述)
7 近世中期・マニエリスム期 16世紀後期

(1) 時代背景
社会の発展に伴い市庁舎等の大型公共施設や宮殿などのニーズが高まり、従来のルネサンス様式の厳格適用では限界が現れる。

(2) マニエリスムの建築の特長
この為にイタリアで古典様式の厳格適用を打ち破る新手法(大オーダ、双子柱等)が生み出された。この時代は次のバロック様式に引き継がれる過渡期とみなされ、現代ではマニエリスム期と表現されている。
<下はローマの市庁舎  ミケランジェロ設計のマニエリスムの代表的建築
独立柱ではないが建物表面に一階と二階を通した
長い柱(大オーダ)がペアで使われているのが見て取れる>


8 近世・バロック期 17~18世紀

(1) 時代背景
王家、商家がますます強大になる。フランスでは王の権威をキリスト教の権威に頼らず古代神話との関係付けにて行うよう考え、また、鏡などの産業新興力を示す建築が求められるようになった。各地の宮殿もルネサンスの端正さに加え、豪華さ、華麗さ、ダイナミズムが求められた。
一方、カトリックでは宗教改革への差別化を明確にし、自らの信頼性を取り戻すことに注力していた。ゴシックの「絶対神の近寄り難い威厳表現」や「神の光の世界表現」から、「人間や現世と神の世界との一体感」を表現することを望むようになった。

このような背景の元で、後にバロック様式と呼ばれる新しい建築様式が定まっていった。

(2) バロックの建築要素
古典のオーダの持つ威厳性や重厚感を生かしつつ、よりダイナミックで柔軟・多様な表現を可能とする
~双子柱(接近して二本柱を並べる、ペアコラム、ルネサンスでは柱は単独配列)
~等間隔でない柱(ルネサンスは等間隔配列)
<下はフランス・ルーブル宮殿の東側ファサード
階を貫く大オーダが双子柱として並べられている>

●大型で高層の宮殿や公共建築へのオーダの適用を容易にする
~大オーダ(階を貫く長い柱、ジャイアントオーダ、ルネサンスは階毎にオーダ)
●ルネサンスでは見られなかった新しい造形・意匠の採用
~楕円の活用(ルネサンスは円重視)
~様々な凹凸のある柱や壁や梁エンタブレチュア(ルネサンスは平板面が基本)
~均等ではなく中央重視(ルネサンスは均等重視)
~外装と内装の独立(ルネサンスは内部と外部は統一が原則、バロックでは各々の目的を重視し統一されていなくてもよい)
~建築/絵画/彫像の渾然一体化(ルネサンスでは各々独立配置)
<下はローマのサン・カルロ・アレ・クワトロ・フォンターネ教会堂
代表的なバロック様式  正面ファサードはうねる曲面を持ち
内部は楕円形の空間を持つ>



(3) バロック様式教会堂の特長
カトリックは反宗教改革の精神をキリスト教正当派の自負として教会堂に表現。「絶対神の近寄り難い威厳表現」や「神の光の世界表現」のゴシックには回帰することなく、「現世と神との一体性」や「神の荘厳性・崇高性」を新しい建築・芸術要素で表現。それによりカトリックの権威を従来以上に高める。

一般的なバロック様式建築の特徴に加え、
ミサに適する教会堂形
~集中式ではなく横長のバシリカあるいはラテン十字形

ゴシック時代の様な大型の教会堂はあまり作られなくなり、また、無闇に高さを誇示することもなくなった。
進む装飾化
~白地に金色縁取りのロココ装飾の活用による華麗化、豪華化(ゴシックの威厳化とは違い)。白は光、喜悦、純潔、金色は王、権力、高貴等を現す。

一点透視図法での視野や錯覚の活用や複雑形状の内部空間により小規模教会堂でも華麗でダイナミックで神秘な世界を見せる。
彫刻や天井絵画と教会堂との複雑な融合による現世と神との一体性と荘厳性・崇高性を同時に表現。
<下はドイツ・ヴェルテンブルグの修道院内教会堂
建物・彫刻・天井画が一体となっている>


補足:サンピエトロ使徒座聖堂の建築経緯
カトリックの中核。聖ペテロの墓があった場所にそれを奉する聖堂があったが、16世紀初頭に再建が計画された。建築に当たって資金集めとして1517年に免罪符を販売。皮肉にもそれがルターによる宗教改革への引き金となった。

実際の建築は建築家ブラマンテの設計によるルネサンス様式のギリシャ十字形の巨大教会堂として1506年に着工されたが、あまりに巨大な為に構造的問題が発生し中断。その後、ミケランジェロの縮退設計により1589年に完成した。
<下はミケランジェロ設計で完成した集中型の教会堂>

しかし、ギリシャ十字形はカトリックのミサ典礼にうまく適合せず、カルロ・マデルノによりラテン十字形への延長と、バロック様式の大きなナルテックス(入口建築)を増設1624。更にベルニーニ設計によるバロック様式の楕円形広場と回廊を付け加え最終的に現在の形に完成した1667。
<下は最終の形態  オリジナルな集中形式の堂は右側に残る>

<下はヴァチカンのサン・ピエトロ使徒座聖堂
ミケランジェロのドームを抱く本体手前にマデルノ設計の身廊とナルテックス(入口建物)、その手前にベルニーニ設計の楕円の広場が並ぶ。イタリアの偉大な建築家の作品群であり、ナルテックスと広場はバロックの特長を現す>

<下はナルテックスのファサード。大オーダ、(写真ではよくわからないが)いろいろな種類の柱や凸凹のエンタブレチュアなどのバロックの特長が現れている>





9 近代  建築様式の混迷  19世紀 

(1) 時代背景
工業の発展、社会の民主化などにより大型の公共建築(駅、ホール、市庁舎等)が求め始められるが、それに適合した新しい建築様式を創造できずに過去の様式の取り込み、融合が行われた。

なお、何々様式の建物という場合、何々様式の時代に建てられたものなか、何々様式という様式をまとって後世に建てられたものなのか、どちらの事を言っているのか分かりにくい。

(2) 過去を流用する建築様式
●新古典様式:
~建築の初源に戻った考え(柱、梁、ペディメントの軸組工法構造) 

~古代ローマではなく古代ギリシャに戻った考え→グリークリヴァイバル。(例:ギリシャのペディメントはローマのよりも平たい) 
独立円柱を構造体として使う(付け柱ピラスターはだめ)・・・これは石造建築では建築力学的に無理が出る。
●折衷主義:エクレティシズム 
自らの建築を「様式」概念でとらえざるをえない事情 
一方では新しい建築用途の登場で旧来の様式では整理しきれない事情 
自らの時代の独自の「様式」とは何かという問題意識
過去の様式を折衷すれば、時代にあった新しい様式を生み出せるのではという意識
●歴史主義
~過去建築の意味づけによる建築の考え 

特定の過去に着目するのではなく、それまでの多くの様式を全て取り込む:
●ネオXX様式
~XX様式に則るが新しい意味づけも含めて新建造
●XXリバイバル様式
~元々のオリジナルなXX建築様式そのものに則り新建築またはリストア


(3) 教会堂建築への影響
社会における教会そのものの地位が相対的に低下し、宗教活動としては安定はしてきたものの新しい宗教的な取り組みはなく、従来の教会堂をそのまま使う、あるいは新築にしてもゴシック様式あるいはバロック様式を踏襲しての建築となった。

10 現代  建築様式の終焉  20世紀~ 

(1) 時代背景
金属やガラスなどの新しい建築素材や建築機械が出て来て、旧来の建築構造に捕らわれない新しい造形が可能となり、建物全体としての「建築様式」という概念は終焉を迎えた。「建築様式」は建築の部分要素や装飾要素として象徴的に採用され生き残ることになる。
古典様式 金融関係、政府施設関係、結婚式場
重厚なコラムの列やペディメントが権威や重鎮性、歴史の重みを表現
ゴシック様式 キリスト教会堂、キリスト教関係施設、市庁舎
~尖塔アーチ形がキリスト教を暗示
~中世の市民自治(と思われている)の伝統を想起
ルネサンス様式 オフィスビル、公共施設
~整然とした姿がアールデコ様式と組み合わさりオフィス環境に適合
バロック様式 学術や芸術関係施設
~バロック式のコラムや楕円の活用などがダイナミック性を表現

(2) 教会堂の姿

教会堂においても今までにはない造形や表現で多種多様なものが建築される。(例:東京カテドラル聖マリア大聖堂・・・ロープアーチを用いた無柱構造)

しかし、「キリスト教がこの時代にあった新しい姿を見せ、それに合わせた新しい造形」ということでもなく、建築が逆にキリスト教に新しい姿を訴えかけるものでもない。
 
図版流用元

<A History of Architecture on the Comparative Method>
<ヨーロッパ建築序説>

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