西欧建築の塔
 
1 日本の塔と西欧の塔
日本の伝統的な建築としての「塔」と言えば三重の塔、五重の塔を思い起こす。これらは元を辿れば仏塔(ストゥーパ)に由来したものである。仏塔は釈迦の遺骨・遺物を收めた施設で、当初は半円形の墳墓の形だったが、4~7世紀ごろから塔の形を成した。当初が半球形であったことから塔も円柱形に発展したと思われるが、中国では多角形も多く(建築上の理由か?)、日本に渡ると四角柱形の多層塔、多重塔となり、仏教施設の一つとして多く建築された。
これらに共通する特長で欧州の塔と大きく違う点は、仏塔は仏教的意味合いしか持たず、なおかつ内部空間はあったとしても、そこに人が住むということは無いという点である。
中国・蘇州・雲巌寺塔  47m高 10世紀頃  この塔はピサの斜塔のように傾いている

世田谷・豪徳寺・三重の塔
2  西欧の塔
一方、西欧ではキリスト教会堂の塔のように宗教的建築もあるが、城塞の塔、何らかのの理由による塔と多様な目的を持ち、居住空間として使われるものも珍しくない。
(1)城塞の塔
中世・中期(概ね10世紀~)の築城形式の一つとしてイングランドなどでは「モット・アンド・ベイリー」という形式があった。これは堀や木柵等で城塞の領域を形成し(ベイリーと呼ぶ)その中に小山(モットーと呼ぶ)を築き、その小山の上にキープと呼ばれる石で作られた円筒形塔を中心館として構築する築城形式。

先ずは堀や木柵で敵の侵入を防ぎ、そこを破られた時は丘の上のキープに逃げ込み防戦するという物である。またキープは周囲に比べて小高い丘の上にたっているので見張り台の役目も果たしている。キープは防御の為に窓をほとんど持たない構造なので、内部は居住出来る形にはなっているが、非常時以外はそこに居住することは難しかった。
初期のモット・アンド・ベイリーの模式図
当初のモット・アンド・ベイリーは領主だけが住む小規模のものであったが時代を下るに近づき、ベイリーは面積が大型化されて、領主だけでなく住民もそこに住むようになった。この為、キープ重視ではなくなり、ベイリー全体を防御する強固な壁(アンサント)を築造することで防御のポイントはアンサントに移った。そして防御の為に単純な円筒塔だったキープは通常の住居建築物に近づき、領主はそこに常時居住するようになっていった。この形態はやがて街全体を市壁で囲うという形に発展していった。
モット・アンド・ベイリーの拡大形
アンサントは強固な石壁(カーテンウォール)と要所要所に城塔を巡らすとしていう、現代でも見慣れた城塞の形式に整っていった。城塔は見張り台と矢の陣地を兼ね備える為に壁よりは少し前に出た構造で建築されたが、高さはカーテンウォールより少し高い程度であった。
フランス・カルカソンヌ(二重の市壁)
しかし、更に時代が下り大砲の時代になると高い構築物は敵の大砲の的になってしまうのでキープや城塔は作られなくなり、撤去されていった。残存しているキープや城塔は大砲の時代には街としての地位を失い、そのまま残っているものが多い。
(2)街中の塔
●イタリアのサン・ジミニャーノ●●
この世界遺産の街には14もの四角い塔が現存している。これは都市内での有力者の権力誇示の為に競って建造されたものであり、最盛期の13世紀には70もの塔が立ち並んでいたという。塔は石積み中空で高さは50mにも及ぶものもあったが、塔の存在自体が価値であり、それ以外の目的は持っていなかった。
●●東欧のジョージア・ウシュグリ村●●
ここには約200の方形の塔が各家々に建っている。高さは約20メートルでそれほど高くはなく、上部に簡単な居住部屋があるが、途中は中空の構造をしている。昇るには縄ばしごを利用する。この塔はこの地方独特のとある因習に起因するもので、住人はそこに縄梯子を使って登り、縄梯子を引き上げて身を隠す為に作られた。この地方独特の塔であり、一般的ではないが、このような民間の塔の例もある。
●●中世の自治都市の鐘楼・時計台●●
ベルギーのフランデレン地域とワロン地域では、11~17世紀(ロマネスク~バロック期)にかけて自治権を獲得した都市が都市の権威や自由の象徴として、街の中心の市庁舎や教会堂に付属して、あるいは独立し鐘塔を建設し、今では「ベルギーとフランスの鐘楼群」として世界遺産に登録されている。同様な事例は他の都市でも多く見られる。

今でこそ時計はありふれた物だが、古代では日時計、中世以降は機械時計が人々の生活は重要なものであり、また時代の最先端を現すものでもあった。時計はまた鐘楼の鐘やカリオンとも組み合わさり、塔には鐘(カリオン)と時計が同時設備されているところも多い。また時計台(時計塔)として時計のみを設備する塔もある。
ベルギー・ブルージュの鐘楼Belfry of Bruges
(3)キリスト教と塔
初期のキリスト教建築から塔は欠かせない要素だったようだ。ゴシックの時代には教会堂本体が50メートル以上の高さがあり、それ自体が塔のようなものであったが、教会堂に付属して更に100メートル以上の高さを持つ塔も建築された。

●●キリスト教にとって塔の意味とは●●
・神の存在する場所=遙かな天空→神の世界への接近
・遠方からも教会堂の存在を明らかに分かるようにする。→キリスト教の力を誇示
・礼拝の時間等を告げる鐘やカリオンが遠くまで鳴り響く様にする→キリスト教儀式を守る
・近くからは仰ぎ見る高さ→これを建築した自分たちの信仰心の強さの確認と畏怖
・教会堂に付属して建築することで建築物としての威厳を高める
これ以外に下記のような目的も考えられるが明確ではない
・見晴し台としの観光的機能・・・現在では一般的だが当時としての記録を見つけられていない
・見張り台としての軍事的機能・・・一部そういう機能もあった旨の記述は見つかる
●●本堂とは独立した塔●●
ピサの斜塔のように教会堂本体とは独立した形の塔がある(下写真) 。これは特にイタリアで顕著で本堂、鐘楼(塔)、洗礼堂と分かれて建築される傾向がある。

塔の形状は円形、正方形、多角形とあるが、それぞれの形態に宗教的意味合いはなく、建築上の都合で決定された形である。塔の目的は基本的には鐘楼である。単独の鐘を設置したり、カリオンと呼ばれる音階を構成した鐘を塔の最上部に設置する。また大型時計が製造され始めた15~16世紀以降には時計も多く設置され、時刻に合わせて自動的に鐘がなったりする仕組みも導入された。
ピサの洗礼堂(手前)~本堂~鐘楼
●●教会堂に付属した大きな塔●●
教会堂の顔となるファサード(通常は西に面した入口部分)には豪華な彫刻や飾りが施されているが、その左右に高い塔を建造し、より威風を高めることは初期の教会堂から行われていた。また、場合によっては交差部の上や袖廊の上にも塔は設置され、より絢爛な外観を作った。
ドイツ・ヴォルムス大聖堂(ロマネスク)
イギリスでは交差部上部の単塔式、ドイツ・フランスではファサード両脇に双塔式、イタリアは本堂とは独立した単塔式が多く見受けられる。

ゴシック時代では身廊の高さと共に塔の高さも競うに上に伸びていった。身廊を高くするのとは違って、塔は建築技術上はそれほど難しいものではなく、その高さは資金力によるところが大きかった。その為、建築費が足りずにファサードの左右に立つ双塔が1本だけしか建築出来なかったところもあるし、途中で終わってしまったり、時代が変わり次の時代の様式で様式違いで立てられているとこも珍しくはない。

イタリアに始まったルネサンス時代はゴシックの塔よりも古典的なドームの方が注力されて建造されたが、バロック期になると再び塔は建造されるようになった。しかし、ゴシック期のように高さを競うことはなくなった。
代表的な高い塔(年代順)
◆ドイツ・シュパイヤー大聖堂 ◆
双塔二組ロマネスク様式 東塔71.2m 西塔65.6m

◆フランス・シャルトル大聖堂◆
双塔 右側1140年 105m、左側16世紀後期ゴシック様式113m

◆ドイツ・ハンブルグ・セイント・ニコライ教会堂◆
1195年 単塔147m

パリ・ノートルダム大聖堂◆
1250年 双塔63m

◆ウィーン・シュテファン教会堂◆
1359年 単塔136.7m

◆オランダ・ユトレヒト・ドム教会◆
1382,年  単塔112.5m

◆フランス・ルーアン大聖堂◆
1544年 151m 単塔フランス一位

フランス・ストラスブール大聖堂◆
1647年142m単塔(双塔の片側だけ建築)

◆ドイツ・ケルン大聖堂◆
1880年 双塔158m

◆ドイツ・ウルム大聖堂◆
1890年塔完成 単塔 161.5m 世界一
●●教会堂に付属した小さな塔●●
教会堂には大きな塔ではなく、多数の小さな尖りが見受けられる場合がある。これはピナクル(小尖塔)と称されるもので、小さいので内部空間は持たず、その設置基盤となっている柱や壁を安定させる重しとして機能していると共に装飾的役割を担う。宗教的意味合いは深くないだろう。

ミラノ大聖堂   135基のピナクル(小尖塔)がある
終りに
今回は取り上げていないがイスラムのモスクの四隅を飾る塔ミナレット、エジプトのオベリスクという塔もあった。オベリクスの多くはイタリア等の西欧に持ち出され、イタリアでは広場にシンボルとして置かれた。これらについても、それぞれ宗教的、文化的意味合いを強く持ち、研究素材として面白いものだろう。
 
図版流用元
<A History of Architecture on the Comparative Method>
shiroimage様
Castles and Manor Houses様
nicoblomaga様
travelzaurus様
kamchatka様

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